今の自分が1番好きな話。
去年から、元旦に一年間の目標をたてている。
具体的に、
〇〇をやる
〇〇ができるようになる
など細かく書くようにしている。
そしてそれが達成できるとチェックをしていく。
けっこう楽しい。
その中でもわたしが1番好きな目標が
出逢えて良かったと思える人に出逢う。
これは必ず毎年入れている。
正直、いままでの人生を振り返って
戻りたいと思う時代はひとつもない。
その時その時はこの上なく楽しかったし
その時の思い出話で何杯ももぐらが呑める。
だけど、戻りたいとは思わない。
その当時と今を比べたら、今の方がはるかに楽しい。
私の人生の過去どこを切り取っても、いまの楽しさに勝るものはない。
小さいことでいえば今の髪色も
突如オン眉にした前髪も←似合うかどうかは別
今クローゼットにある服たちも
今の部屋も
ワイワイ騒ぐ女ともだちも
ふざけたことで腹を抱えて笑う男友だちも
新たな職場も
様々なところで出逢う新たな人間関係も
いまがいちばん好きだ。
一昨年より去年。去年より今年。
そうやって今私を取り囲む環境も
新たな環境に飛び込む私も
昨日まで存在しなかった人に出逢えた今日からの人生も
いまが1番好きだと言えるようになってきた。
失敗も失態も多々あるけれど
それらも経験できた今の方が良い。
そんなふうに2018年も
出逢えて良かったと思える人に出逢う
目標に二重丸がつく一年にしたい。
そして私の今年最大で最難な目標は、かわいくなる。
なんとざっくりな。
それでも生きていかなきゃいけない話。
この前尊敬する同職の人と話をした時にその人がすごく印象的なことを言っていた。
両親が離婚して、新しい人が我が家にやってきて、子どもは大好きな家族を取られた気分になる。たまに会う離れて暮らすもう1人の親は久しぶりに会うとたくさんのおもちゃを買ってくれる。だから子どもはそこに居たいし、家に帰るとまた疎外感や家族がとられる悲しさを味わったりする。
保育園でその子の思いを受け止めることはもちろん大切。でも3.4.5歳となっていく中でどこまででもその子の思いを全部受け止めることが本当にその子にとって幸せなのか。
自分の思いをどこまでも受け止めてくれる大人がこの先一生自分のすぐそばにいるわけではない。だから友だちとか、身の回りの人を頼っていく力が必要だし、家庭環境はその子に一生ついてまわるもの。だからこそ割り切るというか、切り替えて生きていかなきゃいけない。何があっても生きていかなきゃいけないんだから、自分で切り替えていく力をつけていかなきゃいけないんだ、と。
ここまで考えてくれる大人が身近にいるこの子はとても幸せだと感じた。
そしてこの言葉はそっくりそのままわたしにも言えると感じた。
というかどの人にもその人なりに当てはまるだろう。
いろんなことがある。
世の中本当にいろんなことが起こる。
それでも私たちは生きていかなきゃいけないんだ。だから切り替える時には切り替える力をつけていかなきゃいけないんだ。
いつまでも自分の環境を悲観してそれを嘆いてる自分に酔ってたらいけないんだ。
切り替えて、割り切って、生きていくんだ。
そして辛い時は依存するんじゃなくて頼れる人に頼るんだ。
そうしてまた自分で割り切って生きていくんだ。
この仕事は本当に奥が深い。
子どもに言うことはそっくりそのまま自分にも当てはまる。だから日々耳が痛いし、私もしっかりしなくちゃ、と思う。
クリスマスプレゼントの話。
幼い頃、この時期になるとサンタクロースがもうすぐやってくる、とそわそわしたものだ。
わたしのところにきたサンタクロースは非常にユーモアに溢れていて、まずわたしのダラダラと長いサンタ宛の手紙に丁寧に次の日の朝返事をしてくれた。24日の朝に返事をもらい、うれしくてその日の夜も書くと25日の朝も返事をくれた。毎年だいたい2〜3日文通していた。
ある年からは、サンタが家にプレゼントを運びにきた痕跡を残すようになった。
窓にサンタのヒゲや手のあとが付いていた。
また手紙と一緒に枕元にチョコレートなどを置くと、次の日の朝包み紙だけ置かれていたりした。
今振り返ってもサンタクロースの記憶はあたたかいものとして心にずっとあるのだが、仕事をしていてよく聞くのは、子どもが○○を欲しいって言ってたのでそれにしました、というフレーズ。
わたしの家は一回も頼んだものが来たことはない。
むしろスイミング体験チケットや、子ども用包丁、腕時計など、なんだこれ…。というプレゼントばかり。
当時のわたしは、なんで自分の家だけはセーラームーンやファービーなど欲しいものを届けてくれないのかとても残念だった。
周りの家が豪華なおもちゃをもらった話を聞くたびに羨ましくて仕方なかった。
けれど今振り返ると、欲しがってたおもちゃを貰わなくて本当に良かったと思っている。
サンタクロースがあげたかったのは
おもちゃじゃなくて機会なのだと伝わるから。
スイミング体験や子ども用包丁など、その機会が与えられなければそもそもわたしの人生の選択としてないものを、サンタクロースがプレゼントしてくれた。
つまりわたしの人生の幅を広げてくれたのだ。
子どもの考えることは柔軟で型破りで斬新だが、人生を広げる機会を子ども自身が創造するのには限界がある。
クリスマスをそのような場として捉えて有効に活用してくれたサンタクロースに心から感謝しているし、だれか保護者の1人でも、プレゼントなににしようかな〜の話を振ってくれたらいつでもこの話したいのに、と毎年企んでいる。
外から大切なものに向き合う話。
先日、以前三年間勤めていた香川の保育園に半年ぶりに行ってきた。
わざわざ四国まで、ときには有給を使ってまで保育園に出向き、ましてそこで無給で働くのには理由がある。
1つは、担任してた現2歳児クラスの子どもたちに忘れられないため。
もう1つは、香川で出逢った人生を通して付き合って行きたい人たちに会いに行くため。
そして最後は、大事なものがわからなくなったときに原点に帰るため。
わたしにとって香川は
三年間働いた保育園は
かけがえのない大切なものなのだ。
だが。
それくらいに本当はやめたくなかった保育園を離れ、今は東京で保育士として働き、違った環境から大切だった場所を見てみると、違うことが見えてきた。
福利厚生。労働環境。人の質。
これは東京がいい、これは香川がいい。そうやって1つ1つを切り離して比べて考えるだけじゃなくて、人生として見たときに、あぁ。仕事だけじゃだめなんだ。と思った。
確かに香川は、とても勉強になるところで、自分がどこまでも成長できるところで、その成長の質、学びの質が半端じゃない。
新卒でそこに勤めたが、真っ白なわたしの心に良くも悪くも染みていく初めての職場が香川で本当によかったと思う。
けれど人生のチャンス、人生の豊かさ、自分の可能性を広げる環境、そういったものを見たときにわたしには東京が合ってるんだ、と思った。
仕事をいくら充実させても、オフの時間がわたしにとって楽しくなければこれ以上辛いことはないんだと、離れたところから香川を見つめた今、ひしひしと感じた。
仕事だけじゃなくて他のことでも
離れたところから大切なものを見つめたとき初めて新たな視点に出逢ったり、自分にとっての大切なものの価値が変わったりする。
離れることは必ずしもマイナスではない。
気付いたときにまたアクションを起こしたり大切にし直したり新たな気持ちで向き合ったり、そういうことが出来て末長く大切なものを大切にできるために必要な距離を見極めることも、大切なものを想うことにつながると思った帰り道だった。
現役保育士が考える保育園選びの話。
結構周りの友達が最近子ども産んだり
そろそろ保育園に預けたいな〜ってぼやいたりしてるんだけど、でもみんな待機児童問題がひどい中保育園入れられるだけで丸儲け、みたいな考えなのか、あんまりどこの保育園に入れるか深く考えてなさそうなのを会話から感じた。
保育園選びってその人が何を大事にしたいかや子どもにどんな環境で育って欲しいかの願いによるので、保育現場で働いているわたしが仮に我が子を預けるとしたら何を基準に選ぶか、を軸に書いていこうと思う。
まず今のご時世早期教育に特化してたり、自由保育だったり、いろんなキャラの園があるけど、わたしが入れたいと思うのは
・遊びから学ぶ を大切にしてる園
・子どもを対等な人間として関わっている園
・保育園での6年間は小学校に入れるためではなく、その子が自分の人生を自分の足で歩いていけるための時間だと捉えている園
ざっくりと。
じゃあ仮に我が子を預けるための園見学に行ったとき具体的にどんな点を見るか。
① おもちゃが子どもの手の届くところにあるか
これ超大事。
おもちゃがいつでも子どもの手の届くところにあって自由に遊べる環境だったら、子どもが
あれやりたい
あれきになる
あれさわってみたい
って思ったときに大人の許可なく出来る。
でも意外と多いんだけど、
おもちゃが大人の背の高さの棚に収納されてたり、子どもが自由にとって遊べなさそうな配置されてたりすると、結局日中は大人の都合で
今日は電車ね〜
って子どものいまの興味関心を無視して電車のおもちゃだけ与えられたり、
はいあそびなさ〜い
ってまるで動物のエサみたいにおもちゃ箱ガッサーっとひっくり返して遊ばせたりしている可能性もある。
そしてもう1つ。
手の届くところに置いてあるかどうかの差は、新しいおもちゃを取り入れてるかどうかの差にも繋がると思う。
それは別に新品を買い足してるかの話ではない。
子どもたちはもちろん成長発達してさの中で興味や育ちたいことも日々変化していくわけで、その中でいつでも手の届くところにおもちゃがある環境の場合、子どもが成長発達したら既存のおもちゃには手を伸ばさなくなることもある。成長したから今までのおもちゃじゃつまらいし。
となると保育者はそこからも子どもの育ちを感じたりして
じゃあどんなおもちゃだったら楽しめるかな?
と子どもの興味関心を軸におもちゃを考えたり取り入れたりする。
でも大人の都合でおもちゃガッシャーのときはどうなのだろう、、と思う。
(個人的にそういうところで働きたくないのでおもちゃの入れ替えが実際どうなのかはわからないけれど)
おもちゃが届くかどうか、かなり大事。
②食事が一斉かどうか
これは特に乳児に感じてだが、幼ければ幼いほど一人ひとりの生活リズムが異なるし食事の内容も異なる。手づかみの子もいればスプーンの子もいるし、もっというと手づかみも手のひらでご飯鷲掴みにして食べるのか数本の指で食材をつまんで食べるのか、口の中に指も入れて食べるのか食材だけを口の中に入れ込むことが出来るのかなど、細かく発達が違うし丁寧に1つ1つの段階を踏んでいくことで結果的にスプーンを上手に持って食べたり、満腹中枢が育ってごちそうさまが自分から言えたりする。
そのときにひとクラス10人なら10人が毎日同じ時間に全員座っていただきますからごちそうさままでしてたら、なかなかそこを丁寧に見ることは難しいかもしれない。(中には丁寧にみてくれる保育士もいると思うが)
それに大人数が一斉にだと、子どもの些細な発見や気づきに反応できる確率もぐっとさがると思う。
食事の時間だって大事な保育の時間で、食事も遊びも子どもの興味関心や成長発達は繋がっている。だから食事の時間も子どもの気づきや言葉に丁寧に反応したいし、食べさせるだけじゃなくてそこも大事な保育としていきたいと思うと、大人数は大変そうだ。
だから特に0、1歳クラスは少人数で、ゆっくり一人ひとりの段階に応じながら食事を進められる保育環境の園がいいなと思う。
それに少人数で生活リズムに合わせて時差をつけて食べている園は、きっと少人数で食べることの大切さをきちんとわかっていそうだし。
③保育士の子どもへの声かけはどうか
これはどの親も気にしてるかもしれないけど、きっとわたしは園を案内してくれる園長や主任の話は右から左で、保育士の声かけばかり聞きまくってると思う。それも存在感を消して。
特に子どもが何かしたときの保育者の第一声はかなり意識する。
たとえば、子どもが高いところに登ったとして
もぉ〜!〇〇くん!怒
って言う人は、あぁ行動だけ見て声かけてるのかなって思うかもしれない
でも
うわ!登ったのか!驚
とか
何が見えた?
とか
音が聞こえるから登ったのかな?
とか
行動だけを見て否定から入るんじゃなくて、まずその子のしたことを受け止めたり、どうして登ったのかその子の心を見ようとしたり、そういう姿を感じるような声かけをしてる人がいたら、素敵だな〜と思うし、わたしも改めて見習おう、って思う。
なんでも我が子のすることを許せと言ってるんではない。
この声かけのあとに、
でもここは机だからね〜登りたいならこっちにしようか。
と言ってもらって全然構わない。
ただ子どもの行動を見てるのか、心を見てるのかは、わりと保育者の声かけの端々から伝わってくると思う。
④ノートや保育者の話ぶりはどうか
これは③の続きとも言えるが、もしお母さんに時間や経済的な余裕があって、気になる園に外部の子どもが遊んでいい子育て支援センターや一時保育がくっついていたら、そこに預けて園の様子を探るのもありだと思う。
一時保育だと今日の出来事や我が子がどう過ごしたかノートに書いて教えてくれるところもある。そのときに仮に、
今日はお外で遊びました。
あったかい日差しの中のんびりと土を触ったり日向ぼっこしたりして過ごしました。
〇〇ちゃんもとっても気持ち良さそうでした。
って書いてあったら、
こいつちゃんと見てたのか?うちのの子じゃなくても誰にでも当てはまるやろこんなの。
と思って行くのやめそう。
でも、
今日はお外で遊びました。
〇〇ちゃんは最初は知らない場所に不安そうだったけれど、抱っこしていると段々と周りの遊んでる子の様子を目で追うようになってきて、砂場のところにおろしてみたら、そぉっと土を触っていました。そこから少しずつ緊張もほぐれてきたのか、室内に入る頃には日差しが心地良いのか気持ち良さそうな表情を見せてくれました。
と書かれていたら、ちゃんと子どもの目線とか表情ひとつひとつ捉えてくれたんだなって嬉しくなるし、また預けたいなって思う。
これはノートに限らず直接話す時も同様。
一時保育でも支援センターでも、保育園に預ける、または親子で遊ぶということは、現場の保育者と話せるのだから、そのときそこの園の保育者はどんな言葉を使ってどんな表現で話をしてくれるのか、保育者の表情をみることも大事だと思う。
まあ親がいる前と後では異なるかもしれないけれど、だからこそなるべく保育者の素の表情や声かけ、関わりをを見たり聞いたりしたいと思う。
見学の時間帯は午前中10〜12時とか15〜17時とか、子どもが活発に動いている時間がいいと思う。食事の様子も見られたら尚感じるものがあるかもしれない。
12〜15時などの午睡中に行ってしまうのは勿体無い。
簡単に思いつくことを書いたから
また追加で沸いてきたら書き足そうかな。
待機児童問題はなかなか拭えないかもしれないけれど、保育園で過ごす0〜6歳ってその子の人生に大きく影響するくらいとてつもなく大事な時期だから、とにかくどこでもいい!じゃ勿体なくて、選ぶ側にもジャッジする権利があることを感じてほしい。
そして、その子がありのままを受け止めてもらえて、その子らしく子ども時代を過ごせる園にに巡り会えたらいいな、と思う。
友人が人生の分岐点にいる話。
わたしの中での大きな話題といえば
新婚の友人が結婚式直後に旦那の浮気がわかり問い詰めたところ、浮気相手を選びたいからお前とは離婚したいと言われていること。
なんじゃそりゃぁぁぁ。
二次会の挨拶で、尊敬と感謝などと大口叩いてたのはどこのどいつだ
友人はそれはもうげっそりして
覇気がどんどんなくなって
バツがつくことを恐れていて
毎日なんとか頑張って生きている状態なんだけど
悲しい気持ちも離れていって欲しくない気持ちもわかるけど、何よりも友達には幸せになってほしいから、アドバイス求められたときには感情捨てなさい。しか言えない。
わたしの経験上(離婚ではない)、
問題は、彼が離れていかないためにどうするかじゃないと思う。
もうそこを考えてる時点で自分は感情に支配されまくってて冷静な判断出来ない。
ちゃんとみなきゃいけないのは
彼自身が苦しい立場になったとき、土壇場でどんな振る舞いをしたか。どんな発言をしたか。どんなふうに物事を、夫婦を、嫁のことを考えたか。
そういういざという時の相手の態度だと思う。
いろんな壁にぶつかってもちゃんと向き合って話し合い、支えあいながら乗り越えていくのが夫婦だけど、結婚生活って結構笑えない壁だらけな気がするんだよ。
そこでいざという時に逃げたり、責任転嫁したり現実から目を背けたり、自分さえよければいいって思ってたり、そういう人間性のひとならばもう夫婦生活は致命的だと思うんだわたしは。
今回友人の経験したことは、
それが如実に表れてるんだけど、
ただただバツが嫌だ、別れたくないでいっぱいいっぱいだと本当に大事なことに気づく機会を無駄にすることになる。
まあ第三者がいくら言っても本人が
「確かにそれが大事かも」
って思えないと難しいし、
第三者だから冷静な部分も勿論あるけど。
バツへの抵抗だって、
自分が幸せな人生を歩むためのバツはむしろマルだと思うから不幸になりそうな環境からescapeするのは大賛成。
同じこと繰り返して学びがないのは別問題だけど。
バツの1つがどうした。
(この前テレビでバツ7の人がいた。もはや国宝レベル)
自分の人生を左右する選択こそ
本当にこの人と一緒にいるべきなのか
わたしはこの人の人間性と一生を共にする覚悟と尊敬と安心感はあるのか
感情は捨てて理性で淡々と詰めるしかない。
自分にも相手にも。
その先に本当の幸せがあるはず。
しんどいけどがんばれ友よ!!
と言いつつわたしはいつもしょーもないことで悩んでるけどな。
まあ自分のことになると盲目になりやすいということだ。
モテ期プロデューサーと知り合った話。
ひょんなことからモテをプロデュースする人と知り合った。
婚活のセミナー開いたり、悩み相談とかモテテクを教えてくれたり、こうしたらいいですよってアドバイスくれるらしい。(わたしはボロクソ言われた)
この肩書きに関して「なにそれ…」って思う人もいると思うけど(わたしの周りにもいた)、私はいいと思う。
そういう肩書きにするのって結構勇気いったと思うけど、でも自分で何か新しいことを始めてその知名度を浸透させていくために自分に出来ることはどんどんやるべきだと思うし、まずそこの第一関門をクリアできるかどうかで、夢を実現できるかどうかの最初の分かれ道になると思う。
それはさておき、
その人の話を聞いたり、記事を拝見してる中で、懇願しにきている人たちは大丈夫なのか?って思う。
決してそのプロデューサーを否定してるのではないからそこは誤解して欲しくないんだけど。
言いたいのはプロデュースのことではなくて、
懇願しにくる人たちはいま意中の人がいるのか、それともフリーで相手を探しているのかバックグラウンドは異なってもスタンスは
What should I do
なんだと思う。
そして多分、来てる人はなによりも間違えることをとっても嫌がってそう。
つまり、なに1つ道を間違えずに行けて尚且つ最短ルートでたどり着ける地図をください。
っていうスタンスの人が多いんじゃないかな〜
たしかに、誰だって好きな人には好かれたいよ、モテたらテンション上がるし自信つくし、悲しい経験せず間違わず良い人を捕まえたいよ。それにタイムリミットとかあるのもわかるし。あんまりタイムリミットって言葉好きじゃないけど。
でも人と人とが関わる以上、
やべぇこのパターン初めてだわ…。とか
これでも伝わらないのかとか
ああやっぱりこうやってLINE送ればよかったとか、予定調和なんかない上にあれこれ後悔したりするものだと思う。
でも、だからひとってそこで初めて、
次はこうしようって思うし、
至らなかった自分を改めようとするし、
逆に気持ちが通じると嬉しくなるんだと思う。
いまこういう状況で僕はこうしたらどうかなって思うんですけど、あなたが僕の立場ならどうしますか?
っていう質問をして色んな方法を知った上で自分はどれを選ぼうか 、ならわかる。でも
この時はどうしたらいいですか?
なにをあげたらいいですか?
いつ言えばいいですか?
WHAT SHOULD I DO!!
はぜんぶ、そこに相手はいない。
相手がなにを考えなにを感じてるか、
目線や表情、仕草に空気感、言葉……
その人をわかりたい知りたい感じたい捉えたいと思うが故にヒントになりそうな情報や、
その人がいて初めてその人の気持ちがわかるっていう大前提が抜けてる気がする。
だって別にあたしはさ、あんたが正しいポイントで正しいことをしてくれるから好きになるわけじゃないのよ。
間違ったってなんだっていいからさ、なに食べたいかな?ここ連れてったら喜ぶかな?これきっとあの子好きだろうな。ってあたしのことを思ってあれこれ考えてくれる、それが垣間見れるから好きなんだもん。(誰や)
恋愛って相手があってこそだけど、
恋愛の悩みも相手がわからない時も、ヒントや答えは相手の中にあって、そこに自分の
「もっと相手を知りたい」とか
「大切なひとだから素直に気持ち伝えよう」とか、
自分がその人とどういう関係を築いていきたいかっていう思いとがかけ合わさる中で答えって見つかるんだよ。
その答えがすぐ見つかるかどうかはわからないし、答えだって気づく目を養わなければそもそも無理だって思うかもしれないけど、
いいじゃんちょっとくらいミスっても。
あなたと向き合うってそういうことだもん。
大切にしたい気持ちがちゃんとあるなら、全然ミスくらいカバーできるよ。
それよりも相手を見ずに、
1+1=2の1つしかないわかりきった正解だけを踏んでいこうとするからいまここで懇願してんねんでアンタ。
って言いたい。
ひとってみんな違うから
恋愛をたくさんしてある程度のパターン、例えば感情逆撫でポイントとか逆にキュンツボポイントとか、そういうなんとなくこんな感じだったいままで。とかはあるかもしれないけどでもそれって振り返ってみての統計じゃん?
そのときそのときはその人のことを穴が開くほど見つめて考えた結果であって、それを今後の女性にも当てはめよう、だって女の思考回路なんてたかが知れてるし大概の女はそんなもんだろう?
って言って出会う人たちに当てはめていくのは単に横着者だとみる。
恋愛を実らせたいなら、その人のことを大切にしたいって心から思って、失敗してもいいから真摯に向き合うのが1番遠回りのようで近道だと思うよ。
結果そういう人がほんとにモテる人だと、わたしは思う。
だから女を持ち駒にしたいだけのモテはこっちから願い下げdeath。
あ〜〜モテたいね〜〜〜